バリぷうぷう

世界黒猫計画3 バリ島ウブドに生息中

バリ島のニワトリ

結婚式のこと全然書かないで、なんで鶏のことばっか書いてんのかな?と、自問自答しつつ、私の短いバリ生活の中で見た鶏のこと。

 

まず、自宅で鶏を飼ってる家が多い!伝統的なスタイルの家(同じ敷地内に親戚も含む親族一同が暮らす)は、ほぼ鶏がいるのでは?

大抵放し飼い。なので親子でよく近所を散歩している。アパートの私たちの部屋の前も、大家さんやお向かいのワルン(雑貨屋や食堂)の飼い鶏の散歩コース?縄張り?だ。ヒヨコがわらわらと母鶏について散歩する姿はカワイイ。少し大きくなってくるとヒヨコだけで冒険がてら遊びにきたりする。

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ウブドの中心部、車や人通りの多いハノマン通りでも、こんな風に生まれたてのピヨピヨ達がお散歩してたりする。近くには父鶏がいて、見張っていることもよくある。

私がヒヨコの写真を撮ろうと近づくと、父鶏が寄ってきて、私を軽く牽制しながら母子を逃すのだ。ちゃんとしてる。

 

そんな感じで鶏の生息率はかなり高いので、夜中にコケコッコー合戦が始まることも多々ある。誰かが鳴けば、負けじと誰かも鳴くのだ。特にウチの近所の鶏たちは、こぞってウチの横の塀にのぼり雄叫びをあげまくるので、お前が強いのはよくわかったから黙れ、と言いたくなる。せめて飼い主の家の屋根の上止まりにしておいてほしいものだ。

しかし、今やウチも鶏飼いとなり、今まで以上に至近距離でコケコッコー!とご近所に響き渡らせているので、もはやそんな事は言えない。

 

それとよく見かけるのが、籠に入った鶏。

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闘鶏、または観賞用、かな?闘鶏用とは思えない、でっぷりムチムチした大型鶏(育ち過ぎではなくそういう種類)が入っていることもある。

ウチの鶏たちもこの竹籠タイプ。これは移動用とか一時的な籠だと思っていたのだけれど、籠の外に出さないのか聞いたところ…ずっとここで過ごすんだそうだ。こんな狭い場所で?しかもトサカが籠で傷つかない様に切ってある場合も多い。か、かわいそう(涙) と、つい口走る。

竹籠以外にも、庭に固定の鉄製の鳥籠タイプもあって、それはもっと狭かったりする。

 

闘鶏もバリでは頻繁にある。闘鶏の鶏たちは首の周りの羽根を広げてファイティングポーズをとる。

放し飼いの鶏ももちろんファイティングポーズしたりするのだろうけど、前述の父鶏達が喧嘩してるのは見たことがない。彼らが籠に入ったウチの鶏を見かけても挑発したりもしないので、実際、雄鶏同士が喧嘩するのはよっぽどの場合なのでは?と思う。

でも闘鶏用の鶏は籠から出したらすぐに他の鶏を挑発しはじめる。そう訓練されているのか、狭いところに閉じ込められているからなのか、雄ばかりで生活してるからなのか…。同じ雄鶏なのに不思議だ。

 

あと、外出時に見かける食用の鶏を乗せたトラック。ぎゅうぎゅうに荷台の籠に積まれて、炎天下をぐったりと運ばれて行くのを見るのは何とも複雑な気持ちだ。(豚もよく見かける)

でも私は鶏肉も豚肉も食べる。

 

かわいそう、と自分が口にするたび、かわいそうなんていう言葉は本当に薄っぺらいなと思う。

バリ人は動物をそんな風に扱うなんて、ひどい、かわいそう、ってのも違う。

個人的には闘鶏は好きではないし、無くなった方がいいと思う。でもバリでは大きな儀式の前の大切な行事の1つだったり、男性達の娯楽でもある。

トサカを切られるのも、そもそも籠の中で飼わなければいいってのもあるが、籠で飼うからには不要なケガがなくて済む訳だ。

放し飼いならいいのか?と思えば、ある日、大家さんから、飼い鶏を二羽絞めたから一羽あげる、ともらう。いつも庭を荒らし、いや、散歩してる子達だ。荒らしのお詫びも含めてらしいが、さっきまで庭で土を掘ってた子が夕食になることもある。

今の私には、命をありがたくいただくことしかできないし、この環境にいる事でよりその感覚は強くなったなと思う。感謝していただく、とかそんな美しい感じではなく、もっと日常的な、地べたについた感じだ。

 

たぶん、日本も昔はこうだったんだろうなーと思う。日常に命を食べる事を目にする風景。

 

おっと、こんな事を書くつもりだったのか、すでにわからなくなってしまった(笑)

でも、動物に無駄に無意味に苦痛を与えたり苦しみを助長したりする事は、私にとってはイヤだし許せないことである。

 

自分の考え方や感覚が正しい訳ではない、というのを淡々と日々感じる。もちろん間違ってもいない。でも、正しい訳ではない。

もし何かを正しいとするならば、それはあくまでも私にとっての、私だけの「正しい」なのだ。

 

 

旅は続く